ムーミン研究家森下圭子のフィンランド便り

kalaruoka
厳しい自然の中で生きるフィンランドでは森の恵みをあらゆる方法で保存する。魚の上に乗るのはタンポポのつぼみのケッパー。この時期の新鮮な旬の食材に、春に作り置いたケッパーが加わる。

例えばフィンランドでポーチを買うとする。お気に入りのテキスタイルの柄で探していると、どこを切り取ったかで、まったく様子の違うポーチになっていることに気づく。そんなことがほんの10年前は当たり前のことだった。日本へのお土産として買う時は、かなり真剣に柄を選んだ。例えばマリメッコのウニッコ柄でありながら、花の柄がまったく入っていないポーチなんていうのもあったのだ。個人の手作りではない。マリメッコがそういうのを作っていた。日本に買って帰る時は、花が中央にありそうなものだけを選んだ。一つひとつが違う柄のポーチを、誤差と考えるか個性と捉えるか。私は花のついてないポーチを半ば不良品くらいの気持ちで見ていたと思う。

同じ柄の生地を裁ちかたひとつで、まったく違った柄のように見せる。ヴオッコはそんな風に服を作っていたではないか。そうか、花だと思わず、花びら部分の曲線を、茎のラインを、色を、つまりはウニッコは花という先入観を外して見てみると、ポーチには花以上の柄が潜んでいて、それはそれで楽しいではないか。

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サマーハウスは自分たちで建てたものが多く、そのためシンプルな構造の割には、どの小屋も違っていて、どれも味わいがあり愛らしい。

商品も外国へ向けてという意識が強くなったからか、今ではすっかり同じ柄のポーチや商品が並ぶようになった。するとふと、あの頃の自由な裁ちかたが懐かしく、愛おしくさえ思えてくる。受け取る側のおおらかさ、寛容さ。改めて個性というのは、誰かによって育てられるというよりも、まずのびのびとさせてあげるところから自然と育つものなのかと思う。ムーミンの作者トーベ・ヤンソンは、ものを作る時に子供のためとか、誰かのためなんて考えていなかった。自分がやりたいようにやった。ただし、世に出たものがどんな風に受け止められるか、市井の人々の言葉に耳を傾けた。

ヤンソンは芸術家だから、それでもいいのか?この連載で何度か書いてきたけれど、デザイナーだってそうだ。いてもたってもいられずに、アイデアがどんどんと出てくる、様々な制約にとらわれずに夢中になる、デザインの現場を彼らはそんな風に話す。受け手が大らかで社会が寛容だと、作る方も生産する方も、自分たちの本来の力を出していけるのかもしれない。不良品でなく、誤差と呼ばず、個性と呼ぶ。デザインが面白い個性的なデザイナーが登場するには、そんな社会的環境があるとか、人々がいるからではないだろうか。

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森下圭子(もりした・けいこ)さん略歴

1994年秋に渡フィン。ヘルシンキ大学にて舞台芸術とフィンランドの戦後芸術を専攻。現地での通訳や取材コーディネート、翻訳などに携わりながら、ムーミンとトーベ・ヤンソンの研究を続けている。映画「かもめ食堂」ではアソシエイトプロデューサーを務める。ヘルシンキ在住。

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